高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族のあゆみ

高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族の記録

ケアマネーさんのこと

 義母のケアマネさんは、要支援の時期にお世話になっていた地域包括支援センターの方に義母が要介護1になった段階で紹介していただいた方。私とほぼ同世代。明るくてフレンドリーで、歩いて5分のところに住んでおられる方。包括の方は、家が近所だからという理由で薦めていただいたと記憶している。

 悪い方ではない。むしろとても良い方。優しいし、明るいし、信頼もできる。私が義父母のお隣に住んでいて、介護のキーパーソンになっていることを知りつつ、毎月の話し合いの予定を立てる時には必ず義妹に連絡をして、それとなく彼女を介護に引っ張り込もうとしてくださっていることも分かっている。本当にありがたい。ただ、介護認定を受けていない義父に介護認定を受けることをプロの立場で勧めてくれたり、義父母の食事の援助などの良い方法のアドバイスを受けたいにもかかわらず、どうもそこのところを理解していただけないことがじれったい。毎月の会合は、ケアマネさんの話したいことをたっぷりと話し倒して終わり、みたいなところに少しうんざりもしている。

 長年実のお母様をたった一人で介護してきた私の友人のケアマネさんは、その点痒いところに手の届く実に優秀な方だった。何度か私もお会いしたことのあるその方は、何より介護をする側が疲れ果てないようにと実に様々なアドバイスをされていたし、こんな時はこの施設が良いなどという、介護施設の情報に精通しておられた。義母のケアマネさんを探すときに真っ先にその方に連絡したかったが、残念ながらその方はご自身も介護をしなければならないという理由で離職されていて、叶わなかった。

 ケアマネさんを変えるのは悪いことではないと聞く。しかし、大きな落ち度のない方を変えてほしいとは言いづらい。新しい方がどんな方かもわからず、変えていただくこともリスクが大きい。またその方が、相性の合わない方だったら困る。そう何度もケアマネさんを変えるのは考え物だし。

 もしかすると、本当はこれこれこんなことを望んでいます、と言いたいことをリストアップして会議に臨めば良いのだと思うが、差し迫った大きな困りごとがない状態ではそれも難しい。ケアマネさんに上手に要望を伝えて、回答を引き出すのはこちら側の手腕が問われるということだろう。少しずつ、方法を考えていきたいと思う。

自分自身の健康のこと

 小林製薬の薬害のニュースを見ていて思うのは、同じものをずっと摂り続ける怖さ。サプリメントは勿論だけど、これはサプリに限ったことではない。食品もしかり。とはいえ毎日毎日同じ食品を摂り続けるということは、お米以外にはないのでこれはさておき、持病の薬は怖い。関節リウマチを発症して20年近く、少しずつ内容は変わったが、毎日毎日薬を飲み続けている。薬を飲み始めた頃は、薬局で袋一杯の薬をもらって帰るのが恥ずかしくてたまらなかった。まるで老人のようだと。今はれっきとしたシニアだし、いつの間にか大量の薬をもらうことに慣れてしまっていた。

 しかし今回のような薬害のニュースを見ると、ふと恐ろしくてたまらなくなる。ころりと死んでしまえるなら構わない。構わないが、今持っている持病に加え、また違う慢性疾患を養っていかなければならなくなるのは、とてつもなく怖い。私の主治医は国のベストドクターの称号を持つ方。優しいし、患者の話も非常に親身になって聞いて下さる。なので、過去にも何度か減薬の話を持ち出してはみた。でも、何種類もある薬の中の痛み止めの薬を2錠から1錠に減らしてみようかと提案してくださるくらい。2錠が1錠になっても減薬とは言えないくらいの微々たる変化。にもかかわらず結局、痛み止めを1錠減らすと、生活に支障が出るくらいに痛みが強くなり、痛み事態は我慢するとしても、痛いということは炎症があるということで、そこの関節が破壊されているということに違いない。

 もう命は惜しくない。とはいえ四六時中痛みに耐えて、その上関節破壊を起こして、自立した生活ができなくなるのはごめんだ。

実子が同伴した成果

 夫と言い争って、義両親の病院への同伴を私ばかりに任せないでほしいと伝えた手前、すぐに同伴をお願いするのも気が引けた。なので、直後の義母の眼科には私が一度同伴し、次の義父の皮膚科同伴は「私は行けないので、誰か行って下さい」とお願いした。いけない理由はない。本当のところ「行けない」ではなく「行かない」なのだけど、それでは角が立つので、理由は言わず「行けない」とした。そしたら、義妹が同伴してくれることになった。農繁期にこうして時間を取ってもらうことを申し訳なく思う気持ちもある。でも、そんなことを言っていては私はずっとモヤモヤを抱え続けることになる。ここはためらわないことにした。

 義父の通う皮膚科は、本来家から車で30分の大学病院。基本、義父はとても健康で頑丈な人だが、70代になった頃に尋常性乾癬を発症し、以降大学病院で治療してきた。私と同じく免疫疾患で生物学的製剤で治療しているので、病気のことを理解できる私が付き添うのが一番合理的であることは承知している。しかし、私より近親者の夫や義妹が義父の病気の名前すら覚えていないこと、どんな病気か調べてみたこともないことに私はずっとモヤモヤしてきた。義父も86歳と高齢になったことで、生物学的製剤の副作用の間質性肺炎の具合が悪くなってきて、3ヶ月ほど前から注射を止めて、軟膏と光線治療に切り替え、今まで同様大学病院で様子を見てもらってきた。しかし軟膏と光線治療なら近隣の皮膚科でできるということで大学のドクターの勧めで、実は今回から近隣の個人病院に転院するというタイミング。この近隣の皮膚科、歩いて10分。自立心の高い義父は当然のことながら一人で通院すると言い張る。しかし、義父は極度の難聴。初回だけは治療方針など話し合いたいからと無理やり義妹に同伴してもらうことを納得してもらった。

 この義妹の同伴で、彼女は義父の発疹だらけの体を初めて見て衝撃を受けたようだった。話には聞いていても、百聞は一見に如かず。それに加えて思わぬ副産物があった。義父が認知症の義母との生活の様子をつぶさに語ったらしいのだ。義父は早朝5時に起床するのに、義母の方は8時過ぎに起きてきて朝食は9時、10時になってしまうこと。当然昼食は遅くなる。昼食を食べないことも多々あるらしい。夕食は大抵は作るが、ご飯だけだったり、ご飯を炊き忘れて、おかずだけだったり、おかずが単品だけということもままあるらしい。義父が銀行で下ろしてきた現金は義母があちこちにしまってしまって行方不明になることが多発。外出の度に家探ししなくてはならない。「やってられないよ」と本音も飛び出したらしい。

 食事が時間通りでないことは気づいていたが、抜いてしまうことがあることは私も知らなかった。気を付けて、何かにつけて様子を見には行くが、監視されていると義母が思わない程度にしなければと考えていた。ショックでもあった。義母に嫌がられても、もっと頻繁に差し入れをしようか。そう思う反面、私が自主的に動くのはどうかな、という気持ちがなくもない。義妹にはもっと頻繁に差し入れを持って様子を見に来てほしいし、昼食ができるデイケア施設を義父、義母二人ともに探すという解決策があっても良いとも思う。先ずは、実子たちがどういう方針を立てるのかを、私は待つことにしたいと思う。当然時々の差し入れをしながら。

春だから

 夫と喧嘩をしてから、どうも体調が悪い。体調というより、メンタルが悪いのかな。何でも話せる友人が転居して、半年以上も会えていないのも原因の一つかもしれない。今までは、何かあっても彼女と会ってとりとめのないおしゃべりをすれば、塞いだ気持ちも持ち直せていた。今回の夫婦喧嘩は、思わぬことに息子に取り持ってもらって、夫のだんまり無視の状態は終わっている。ただ、何というか、問題が解決しないままで、夫が普通の状態に戻ってしまったので、スッキリしないというか、もやもやが残っているというか、私の伝えたかった本意は全く理解されないままになったままのような気がして、心が晴れない。

 今回の喧嘩を子供たちに知られてしまったのも、何だか情けなく恥ずかしく、いたたまれない。長く同居した子供達に見栄を張るつもりもないけれど、毅然とした親でいたかったという思いがある。決して自分は強い人間ではない。ちょっとしたことで揺れるし、みゆきが起立性調節障害を発症して学校へ行けなかった時期にも大いに動揺し悩み苦しんだのを、家族は見て来たのだから、今更隠す必要もないのだろうとは思う。でも、でも…

 あれ?この心の調子が悪い感じ、これって春だから⁈母の心が壊れたのも思い返せば、桜の季節だった。その時も大きな出来事がきっかけになったわけではなかった。こんな時は、外へ出よう。外へ出て、体を動かさなくては。一気に春らしくなった野山を眺めるだけでも回復できるかもしれない。

 

言いにくいことを言う10日前の出来事

 実は、夫との喧嘩は今年初めてではない。結婚当時から、私が思っても見ないところに埋まっている彼の地雷。時々踏んでしまっては、だんまり無視1週間を何度も経験するうちに、自分自身の平穏のために、地雷を踏まないように踏まないようにと、とても用心して暮らしてきた。言いたいことを全く言わずに来たわけではない。我慢に我慢を続けて暮らしてきたわけではない。ただ用心してきただけ。でも、年に1度は踏んでしまって、落ち込むことは何度も何度もあった。

 先日、一大決心して彼の両親の病院同伴の件を伝えたその10日くらい前のこと。実は義妹の娘が赤ちゃんを連れて義両親の家を訪ねてくれた夜のこと。出産祝いのお返しに返礼品用のギフトブックを持って来てくれた。勿論きれいに包装されたもの。夕飯の後何気なく「頂いたプレセント開けてみましょうか?」と私が彼に言った直後のこと。すぐに包装紙をはがしている途中の彼に「そう言えば、お母様がギフトを選ぶのを手伝って欲しいと言っておられました」と声をかけた途端、彼がブチ切れた。「中身が分かっているなら何で先に言わないんだ」と。ビックリ!!!!!中身って、ギフトブックだから、開けてみなけりゃどんな品物が載っているのかわからない。どこが間違ってた⁈そして一週間以上もだんまりが続いたのだ。私の落ち度は、依然わからない。どこが間違っていたのかな。理由がわからないまま、不機嫌な彼のご飯を三度三度作り、寝る時も私を避けるように寝起きをする彼の態度に疲れ果てた。意地悪なことをしたわけでも、無神経なことをしたわけでもない、なのに何でこんな嫌な思いをしなくちゃいけないのだろうと思ったら泣けてきた。家出して逃げ込めるはずの私の実家は、昨年末に人手に渡ってもうない。そう思ったら途轍もなく寂しくて悲しくてたまらなくなった。そこで、わけを言わずにみゆきのところへ行ってみよう!と思いついた。そしたらいてもたってもいられなくなった。折しも桜の開花時期。去年みゆきを訪ねた時は、桜が散りかけの時期だったので、今年こそは満開の桜をどうしても見たくなったのだ。

 みゆきにlineをして「明日から、しばらく泊めてくれないかな?」と言ったら、「明日から」と言った、その突拍子もなさに異変を感じたらしい彼女。「明日、明後日と早朝から夜遅くまでの撮影なので、二日間だけホテルを取って泊ってくれるかな?ホテル探してみるね」と連絡があった。どうもその間、弟に連絡をしたらしい。速攻でみゆきの弟からlineがあった。「お母さん、大丈夫?何かあった?」と。日頃はあまりやり取りをしていないはずの姉弟。でもこんな緊急時には、さっとつながるのね、そう思ったらおかしくなった。それから速攻でみゆきの弟から電話。日頃はほとんど電話をかけてこない彼が、何があったかをじっくり聞いてくれ、明日行くから待っててとのこと。仲裁に入ってくれると言う。いやいや、誰かが間に入ったら余計こじれるからと固辞。すると、次の日「仕事の帰りにご飯を食べに寄った」と我家に来てくれた。喧嘩のことには触れず、ただ食事をして帰って行った彼。直後、何故か、夫の機嫌が直っている。怒った理由や、だんまりの謝罪もなく、何事もなかったかのように、元の通りになるのは何だか釈然としない。でもいがみ合っているのも息ができないくらい苦しいので、そのままなあなあにしてしまったのだ。これもいけなかった。

 

 

言いにくいことを言ってみる

 連れ合いが、私の至らないことを激しく非難してその日から口を利かなくなった。ほんの些細なことだと思って、伝え忘れた義母のこと。義母が花見のお出掛けで最初2個注文するはずだったお土産の注文書の注文個数を、直前に義母自身がくちゃくちゃと書き直して1個に変えたという事実。私は義母の気持ちが変わったのだから別にどうでもいいと思って、夫には伝えていなかった。そしたら、花見の当日、我家のお土産の1個がなくなってしまったことが気に障ったらしい。お土産がなくなったことそのことより、義母が注文書を書き直した段階で私が報告をしなかったことが彼の琴線にふれたらしい。気づかぬところで、私はこういう報告漏れがあるようだ。言われたら確かにそういうところはあるかもしれない。当然大きなことは報告するが、小さなことは確かに報告していなかった。小さな...と言ったが、その小さなことの基準が私の物差しで測っていたことは否めない。育った環境が違うのだから、お互いの物差しが違うことや、ごく些細なことが受け入れられないことがあるのは当然のこと。価値観が違うのだったら、「そこはこうして欲しい」と静かに言ってくれたならら改めるように努力するのに。激しく怒鳴って以後何日も口を利かないというのは、私には耐えられない。「嫌なところは治す努力をするから言ってほしい。ただ、そうやってだんまりで何日も怒っていられるのは止めてほしい」と伝えても、「腹が立っているのだから口もききたくない」とくる。

 私は、こうやっていがみ合うのが大嫌い。いがみ合ったり、大きい声を出したり、無視されたりすると、心がつぶれそうになってしんどい。静か~に穏やか~に暮らしたい。多分私も息子と同じHSP。だから、私はちょっとくらい嫌なことがあっても、いや随分嫌なことがあっても、黙って飲み込む。それは理不尽だよ~と思っても、何より私自身の心の平安の方が大事だから。

 お互いそれでは、何も解決しないとはわかっていた。嫌なところを冷静に言い合って、折り合っていくことはできないかな。これは彼と結婚してから30年ずっと思ってきたことだ。このままいつものように、長い長いだんまり無視の状況が続くのは耐えられないので、今回少し勇気を振り絞ってみた。「私はね、そうやって無視されるととっても傷つくのでやめてほしい」と。そしたら、「腹が立って話したくもない」と言う。それって、自分が腹が立ったことは、私に激しくぶつけて、私が傷つくのは構わないと言うことか⁈

 そこで、私も嫌な気持ちになることがないわけではなく、平和のために飲み込んできたことがあることを言わなければという気持ちが抑えられなくなった。決定的なタブーだということは分かっていたけど。「義両親にはずっとお世話になってきたし、一番時間があるのは私だから、お二人の病院に同伴するのは当然だと思ってはいます。でも、それが当然のことだとあなたや義妹には思っててほしくはないのだよ。お二人のことを一番知っておかなければならないのは実の子供達だと思うから。時には時間を作って、同伴する努力をしてほしい」と提案してみた。使う言葉にはとても注意したつもりだけど、言いながらみるみる彼の表情が変わるのが分かる。予期した通り地雷を、それもとてつもなく大きい地雷を踏んでしまったようだ。帰ってきた言葉は「わかったよ。これから先、全部同伴は年休取得して俺がやる」そう言って激怒。「わかったよ」じゃないよ!何もわかっていない!!!!!

 まあ、彼が怒っているときに話を切り出した私が悪いのは分かっている。でも、今言わなかったら、また新たな火種を、平和な時間に持ち越してしまうことになる。今まで私だって飲み込み続けた言葉はあって、「平和のために口にしなかったのだよ。私は平和な時間が何より大切なのだよ」と伝えたかっただけなのに、大失敗。そもそも30年もこのことを伝える努力をしなかった自分の落ち度だということは重々わかっている。でも、30年共に暮らした相手に、自分の気持ちをわかってもらえない虚しさ寂しさは大きい。

実母が鬱を発症して丸1年

 ちょうど一年前、実家の母が常軌を逸し、娘としてこの事態にどう対処してよいのか分からず大いに動揺し、本当に苦しかった。母の症状は激烈で、パニック障害のようでもあるし、統合失調症、またはレビー小体型認知症かもしれないと恐れた。どのような病気だったとしても、冷静に事態を受け入れて、良い病院を探し治療を受けるつもりではあったが、その病院探しは想像以上に難しかった。良いドクターを見つけることよりも、介護をする私たちが病気にならないように一刻も早く母をどこかに預ける、隔離することを何より優先してしまったことに、今でも罪悪感というか、後悔というか、割り切れない嫌な後味の悪さが残っている。本当にありがたいことに母は長い時間がかかったものの”怪物”から元通りの”人”に戻り、あの時の償いがまがりなりにもできているので、後悔も罪悪感も小さくて済んでいるが、あのまま、母がこの世界に戻ってこられなかったら、私はどれだけ悔やみ、自分を責め続けることになったことだろう。

 病気が落ち着いて、小さな有料老人ホームに入居を始めた頃の母は、一日が退屈で退屈で、辛そうだった。しかし退屈を紛らすためにテレビを観たり、読書をしたり、入居者の方同士でおしゃべりをしたり、週に一度の”歌を歌う会”に参加することすらできなかった。そして、「病院に帰りたい」と日々泣いた。それが徐々に施設の食事が美味しいと楽しめるようになり、施設長の方が母のために大幅に蔵書を増やしてくださった、施設の本棚の本を読み漁るようになった。今では、朝晩のテレビニュース番組は必ず見ているようだし、週に1度の”歌の会”にも参加するようになり、先日は自分でも人生初のカラオケをやってみたと言う。「カラオケの日は週1では少なくないですか?」と施設長に意見したりもするようになったと聞くから驚きだ。

 最近の母は、日々美味しいものを頂いて、大好きな読書三昧の生活に感謝をしつつ「これでいいのかね?一年前には草取りしたり、食事を作ったり、何かしら労働をしてたのに。全く労働なしに、本ばっかり読んでて気楽は気楽だけど、いつまでこうして生きていなくちゃいかんのかね」とぽろり

 誰かの役に立てなくなって、生きながらえる虚しさ、しんどさ、私もそう遠くないうちに感じるようになるのだと思う。そんなときに、どう励ましてもらえたら納得できたり、嬉しく思ったりできるのだろう。娘の私にとっては、”母が一年前のように病気で苦しんでいないこと”、ただそのことが本当に嬉しくありがたい。”私が嬉しいこと”、それだけで、”母が生きる意味”になり得るのだろうか。