高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族のあゆみ

高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族の記録

親を看ることは、ただ介護するだけではない

 母が入院して、押し寄せる雑多なアレコレに溺れそうだ。母の調子は、快方に向かっている。それはとても嬉しくありがたい。しかし、母が留守の間、母の家を管理する大変さに音をあげそうな自分がいる。母が入院直前まで一人で住んでいた家は、今は亡き父が、定年間際に定年後の楽しみのために買った畑付きの山林。決して広大な土地と言えるものではない。しかし、家で食べるほぼすべての野菜を自給自足できるようにと買った畑は、決して狭くはないし、孫たちを楽しませるために栗や桃、柿、枇杷などの果樹を植えた山林も、私一人で管理できるような広さではない。母の家屋の周りの小さな庭でさえ、夏の暑さで容赦なく生えてくる雑草に、私は太刀打ちできない。

 週末には、できる限り母の家に行って、家に風を通し、家の周りの雑草と立ち向かうが、私一人の力では、とうてい太刀打ちできない。今年の夏は、やむに已まれず、庭園管理の業者さんを頼んで、大きくなった樹木を短く伐採してもらい、草刈りもお願いしたが、この夏の暑さで、雑草は見る見るうちにまた伸び放題。

 よくぞ、父が亡くなってからのこの土地を、高齢の母が一人で管理してきたものだ。

小さな漁師町に育った父が、この広い土地に憧れて、家を建て自給自足の生活を体験したかった気持ちはよくわかる。私自身もその土地で父が育てた野菜や果物の恩恵にあずかった。孫たちも、そのおかげで心豊かに育ったとは思う。

 しかし、その地にたった一人残された高齢の母や、その後管理を引き継ぐ子や孫のことを、父は考えていたのだろうか。豊かな情操教育をしてもらっておきながら、父を責めるのは、間違っていることは分かっている。ただ、無意識に父を恨めしく思ってしまう自分が悲しい。私たち自身も高齢になりつつある今、この土地をいつまでも管理し続けられるとは思えない。しかし、この田舎の古い家の建った、あまりにも中途半端な広さの土地に、買い手がつくとも考えられない。父の思いの詰まったこの土地を、ただの朽ち果てた空き家として残したくはない。できれば、父のように自給自足にあこがれを持つ心豊かな若者に引き継いでもらえたら嬉しいが、さてどうやってそんな人を探したらよいものか。