高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族のあゆみ

高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族の記録

救いの出来事

 母の状態も随分落ち着いて、母を思うと何をしていても泣きたくなるという状態からは私も抜け出せつつある。ただ、今私がやっておかなければならないことはたくさんあるはずで、それを少しずつでもやらなくてはと思いつつ、体が動かない。きっと母はもう元の一人暮らしには戻れないと思うので、母の家の、まずは冷蔵庫を空にして、電気のブレーカーを落としておきたい。台風シーズンになる前に家の周りの点検をして、飛んで行ってよそ様にご迷惑になるようなものは、取り除いておきたいし、家の中の物も母の憂いの種になるようなものは少しずつ処分しておきたい。母が奇跡的に大復活をして、また一人暮らしに戻れたとしても、留守の間に冷蔵庫は整理しておかないと、後々どちらにしろやらねばならない作業だと思うので、ぜひともやっておきたいのに、どうしても腰が上がらない。いつまでも決断がつかず、サクサクと動き出せない、そんな自分が嫌になる毎日。

 そんな時、とても珍しいことに息子からの電話。みゆきの弟、繊細君。彼は幼少期から姉の顔色を見て、何でも姉に譲ってきたようなそんな人。もともとは明るいひょうきん者なのに、いつからか無口でシャイ、なかなか親には自分の気持ちを言わない。学生時代、一人暮らしの彼にごくたまに「元気かしら?」とlineするとたった一言「元気です」とだけ返してくるような人だった。それが大学院を卒業するころから「元気です。そちらは?」、とこちらへの気遣いができるようになったとはいえ、向こうから電話がかかることなど皆無だったので、急な彼からの電話にビックリ。「おばあちゃんの具合が悪いと聞いたんだけど、お見舞いって行けないのかな?」という電話。祖母の具合が悪いというニュースはみゆきから聞いたのだと言う。みゆきの方は相変わらず、頻繁に現状報告の連絡があるので、母のことをみゆきには話していた。

 子供達には、人がどんな風に老いていくのかを見せておきたいと思って、マイルドなアルツハイマーだった私の父や、お隣の義父母の様子は意識して見せて来たし、忘却の人とできる限り話をさせ、お世話もしてもらってきた。ただ、激烈な症状の母を見せるに忍びず、これまで彼には母の病気のことすら話せていなかった。今回、息子に母の話をしながら、改めて、色々な老い方を見せておくべきだと反省。でも、説明しながら耐えられず、電話口で号泣する私のことを、彼はどう思っただろうか。私を気遣い、慰めの言葉を探す彼。「誰にでも老いはくるのだから、仕方がないよ。もっと気楽に向き合おうよ。」と言った後の彼の言葉が衝撃だった。「確かに、お母さんがおばあちゃんみたいになったら、僕だって泣くだろうけどさ」

 何よりの癒しのことばだった。母の激烈な症状の何が辛いかって、自分もそうなってしまうのじゃないかという恐れだったのではないかと気が付いた。でも、誰だって年を取る。そして、多かれ少なかれ、子供たちを心配させるに違いない。絶対にそうしたくないと思っても。でも、それは自然の摂理だ。もし私が母のようになったとしても、彼は泣いてくれるんだ。それがわかって、何となく吹っ切れたような気がする。

 ただ、彼にもみゆきにも母の老い方も見せようと心が決まったのに、残念ながら母の入院する病院は、コロナ禍の措置で土日の面会ができない。週日働いている彼らは物理的に面会できないのだ。