娘が起きるのを待つ時間は、特にストレスのかかる時間。じっくり待つと決めて、その時間はできるだけ忙しくすると決めてからも、どうしても鬱々としてしまう。そして、もしかすると私自身の育て方が原因なのではないかという考えに迷い込む。
-知らず知らずのうちに、親の価値観の押し付けをしていなかったか?
-失敗するという経験を奪い 、失敗させないために先回りの手出し、口出しを
してはいなかったか?
-私は、過保護、過干渉なのだろうか?
担任の先生が、娘の欠席の多さを心配して私を呼び出し話を聞いたそのすぐ後に夫を呼び出したのは、過保護な母親では話にならないと思われたからに違いない。
私は本当にどうしようもない過保護な親なのだろうか?
けれど、病気になってしまった今、後ろを振り返っても仕方がない、と思い直す。
高校生の娘を、親が起こすのは過保護じゃないのか?と自問する。
いや、病気になる前は私が起こすことはなかった。では、病気になってから起床を手助けしているのはどうだろう?
熱発した子供を放っておく親はいないじゃないか。
骨折をした子供には、手となり足となって家族が手助けするじゃないか。
病気になって、起きることが困難になったから、そこを手助けしていることは、過保護とは呼ばないはずだ。そう自分に言い聞かせる。おまじないのように何度も。
そして、再び繰り返す。
先回りの手出し、口出しはしてはいけない。
起こしてくださいと頼まれない日は、起こさない。
彼女の人生、起きるも寝るも彼女自身が決めるのだ。
卒業したいのか、休学したいのか、進学したいのかも私からは聞かない。