高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族のあゆみ

高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族の記録

友人の恵み

 去年の夏まで、私には本当に長い間、何かあるたびに支えてくれる友人が傍にいた。みゆきが3歳の時に始めた英会話教室で出会ったママ友。周りは若いママたちがほとんど。その中、外観は他のママたちと違わないその友人は何故か同じような匂いがした(笑)私と同年代の匂い。子供たちがレッスンしている間待っている英語教室のロビーで親しくなって、その後レッスンのない日にも度々会うようになり、今までずっと一番気を許せる友人になった。かれこれ25年の付き合いになる。人生のあれこれを25年も共有した友人。当然みゆきが起立性調節障害で苦しんでいた時期にも、この友人が私の支えになってくれたし、義父母の介護を始めてからも、煮詰まった私の気持ちをほぐしてくれたのは彼女だった。

 彼女も実のお母様を長年介護の末、2年前に一人で看取られた。その後1年ほど一人暮らしをされた後、お嬢様の家族が都会で家を建てられたタイミングで、お孫さん育てのサポートのため彼の地へ引っ越すことに。当初は、遠いとはいえ会えない距離ではない、と強がりを言ってみたが、あれからほぼ半年。寂しくてたまらない。今まで私がいろいろなこをどうにか乗り越えてこられたのは、ひとえに彼女の支えがあったからだと今になって改めて思い知っている。

 幸い今のところ、みゆきの闘病の時のような大きな悩みはない。けれど、介護をしていると全く悩みがないと言ったらうそになる。ほんの小さなわだかまりでも、信頼できる誰かに話してしまえば、嘘のように心が癒えるのだ。物理的支援がなくても、ただただ聞いてもらえるだけでそれで、また心をリセットできるのだ。それがない寂しさ。心に大きな穴が開いてしまったようだ。

 でも、今まで長い間支えてもらえたことに心から感謝。春になったら、ちょっと思い切って彼女に会いに行こう。それを糧に今日をしのごう。

 

 

3回目の認知症検査

 お正月のパーティをしてからほぼ1ヵ月。忙しさでパニックになってお料理が全く手につかなくなってしまった義母も、ようやく落ち着いて日常を取り戻しつつある。確かに忙しい行事でパニックになった後の回復は遅くなっているように感じるが、それでも1月もすると、ずいぶん余裕が感じられるように。このタイミングで年に一度の認知症検査に。常に見ている私が見ても見た目はほとんど変わらないように思うし、時々しか会わない義妹には変化が全く見えないようだ。でもお正月のお料理を見ていると、着実に認知機能は落ちているようにに見える。

 お世話になっている脳外科は家から車で30分ほどかかる。日頃定期的にコレステロールのお薬を頂いているファミリードクターへは車で10分もかからないで行けるので、30分かけて行く病院を義母はとても嫌がる。確かに遠いだけでなく、自分に物忘れの自覚があるからこそ、専門医で診られるのは自尊心を傷つけるに違いない。病院へ向かう道中、何度も何度も「脳外科へはいつまで行かなきゃならないの?」と尋ねる義母。「一生いかなきゃいけない」とは到底答えられない。「脳血管が詰まらないようにお薬を続けないといけないのです」とか、「お薬で物忘れがひどくならないようにおさえましょうね」とか、ゲームのように同じ答えをしないようひたすら違った答えをするのが私の目標。もしかするとこれが実の子供だとこうも気長に答えられないのかもしれないが、これは私ならできる。これは私の頭の体操だととらえて、とことん違った答えを探すと、これはこれで結構面白くもある。何度義母は同じ質問をしただろう、何パターンの答えができたか数えておけたらよかった(笑)

 今回の認知症テストは30点満点の18点。最初の年は22点。去年は24点だったから、かなり悪かったように感じる。が、担当医は急激に悪化したわけではないから心配いらないと言われた。ただ頭の機能を上げるメマンチンという薬が10mgから20mgに増えた。

 劇的ではないが、少しずつ下がってきた認知機能のせいで、確実に義父母の生活の質は下がってきている。コンスタントに以前のような食事ができているかも心配だ。夫や義妹には認知機能検査の結果や、お料理が難しくなっていることを伝えてはいるのだが、リアクションが帰ってこない。一緒に病院に行っていないことも、常に一緒にいて観察をしていないこともその要因だと思う。もっと大事な局面を実子たちに見てもらうことが大事だと思うのだが、うまくいかないのがもどかしい。もしかすると、まだ認知機能が極端に下がっていない今の時点で夫婦で施設に入ったら、栄養の面でも、お互いの時間を持てるという点でも幸せなのではないかと考えもするが、さて実子たちはどう考えているのか。

 

鬱病発症から10ヶ月

 母が鬱を発症して10ヶ月。発症当時からすると格段に顔向きが良い。投薬は続いているとはいえ、素人目には寛解と言ってよい感じすらする。現在、退院から約2ヶ月。退院当初は、テレビを観ることすらできなかったし、たかが10人程度の集会室で大好きな歌を歌うのですら嫌がった。それがここへ来てニュース番組は毎日見て、最新の出来事をフォローしている様だし、歌の会にも参加できるようになったと施設の方から教えていただいた。施設の入居者の方の中に、お知り合いもできて話をすることもあるようだし、「何もすることがなくて、一日をどう過ごしていいかわからない」ともぼやかなくなった。聞くと、せっせと編物をしたり、血液循環を良くするために手に入れた””あしぶみ健康ライフ”という器具でせっせと運動している様子。本もボチボチ読み始めた。

 -テレビが観られない

 -本が読めない

 -人と関りを持つのが億劫

 -何をして良いのかわからない

それが、一気に解消した気がする。それと

 -人に感謝できない

 -他人に配慮できない

そんな感じも随分なくなった。発症前には、何かを私に頼むとき、必ず「申し訳ないね。お願いね。」と言っていた母が、病気を発症してからは当然のことのように用事を言いつけ、それを果たした後「ありがとう」の一言もないことが非常に気になっていた。

 それもなくなった。施設の職員の方にも何かをしていただいたら「ありがとう」と感謝は伝えているようなので、本来の姿に戻りつつあることが本当に嬉しい。

 ただ、1年前には当然のようにしていた買物や、料理、掃除洗濯、庭の雑草管理などをまったくやらなくなっているので、そのことは少し気掛かりではある。今まで、それらの家事をやっていたからこそ保たれていた認知機能が、衰えてしまうのではないかと心配だ。だからといって今更一人暮らしはさせられないとは思うが、何か手立てを考えなければ認知機能の急激な衰えは避けられないに違いない。

 まずは、母が回復に向かっていることに感謝しよう。そして母がどうやったら日々をエンジョイしながら、認知機能を維持できるか、工夫を凝らしてみたい。

 

みゆきが覚えていること

 高校時代に起立性調節障害で苦しんだみゆき。あれからはやくも9年。今回の帰省はコロナにり患したせいで、自由に出歩けなかった。しかし「実家で何をしたの」と仕事仲間に聞かれて、「家で食べて寝たと」しか言えないのも寂しいとのことで、外出しても差しさわりがないと思われる帰京の日のお昼だけ、彼女の希望で外食をした。リクエストは彼女の闘病中、病院へ行った帰りによく寄ったエスニック料理の店。当時、何を食べても吐き気がするのでガリガリに痩せてしまっていた彼女が唯一美味しく食べられたのが、そこのトムヤムヌードル。それが食べたいと言う。

 期待を膨らませて注文したその料理、残念なことに、体調の悪い時に必ず助けになってくれる料理ではなかったらしい。コロナ明けの、まだ痛みの残っている喉には刺激が強すぎたようだ。でも笑いながら彼女曰く「高校時代のことは本当に何も覚えていないのだよ。覚えているのは、ここのトムヤムヌードルが私の救世主だったこと。それと高校時代に吹奏楽コンクールの地方大会に行って、顧問の先生がラーメンをご馳走してくださったこと。たったそれだけ」

 人間の体はすごい。しんどかったことは、きれいさっぱり忘れさせてくれるようだ。

どんな風にしんどかったのかもあまり覚えていないらしいし、当時の学友の顔や恩師の方々も全く記憶になく、ぼんやりと出席日数が足りず落第寸前だったことや、母親に苦労をかけただろうことはもちろん自覚があるけれど、具体的には何も覚えていないのだと言う。今でも時々、単位が足りず卒業できないという悪夢で飛び起きることがあると言う彼女。でも、詳細は本当に覚えていないのだそうだ。卒業式の朝に、私と大喧嘩したことすら覚えていないと言うから拍子抜けだ。

 当時のことを詳細に覚えているなら、苦しんでいる人にいろんなアドバイスをしてあげたいと言う彼女。でも現在彼女が助言できるのは、エスニック料理ならきっと食べられるよ。そして今は苦しくても、その苦しみはいつか終わるし、終わってしまったら忘れられるよ、ということだそうだ。

 

 

2024年、みゆきのお正月

 娘のみゆきは、上京して9年。就職して5年か?年末年始の休みが、今年は少し長く取れる予定だった。例年より2日早く帰省し、2日遅くに帰京する予定。就職して以来こんなに長く休みが取れるのは初めてで、帰省したら何をしようかと楽しみに、年末の慌ただしさを楽しんでいた彼女。ところが、だ。帰省予定の5日前に熱発。検査をするとコロナだったと電話してきた彼女。年末12連勤してクタクタだと連絡してきた矢先のこと。撮影を頑張ったので、直後の貴重な休日に自分へのご褒美に推しメンのコンサートへ行くと言っていたので、何だか悪い予感はしていた。”押し活”は確かに元気の出る活動だろうとは思う。でも、疲れ果てている状態で人混みに出かけて行くというので、何か悪いものをもらわなければ良いがと、心配していた。しかし、起立性調節障害を乗り切る過程で、転ばぬ先の杖は決してしないと心に決めていた私。「感染しないように充分気を付けるのだよ」の言葉を飲み込んだ。そしたら、案の定その数日後に熱発。コロナと診断された。コロナで多くの重症患者や死者が出ていた当時と、今のコロナの扱いは全く違うようで、病院でもあまり特別扱いされないようだ。それはある意味気楽ではあるが、何せ彼女は一度もワクチンを打っていない。ワクチンで亡くなった友人のいる彼女は、頑としてワクチンを固辞してきた。起立性調節障害を経験して以来、ひどい注射恐怖症もある彼女。それも、頑として予防接種しない理由の一つであったと思う。東京の都心で、しかもあらゆる人と至近距離で関わらなければ仕事できないというカメラマンをしながら、これまで一度もインフルエンザにもコロナにもかからなかったことの方が不思議ではある。

 ワクチン接種を一度もしていなかったので、重症になるのではないかと大変気掛かりだったが、幸い高熱も1日、2日出ただけ。若く、持病もないというくくりに入る彼女、コロナの特効薬も特に処方されず、ただの解熱剤と、のどの炎症を抑える薬しか出なかったらしい。高校時代の彼女を見てきた私には、彼女を”持病がない若者”のくくりに入れても本当に良いのか、非常に疑問ではあったが、それでも、何とか一人で療養期間を乗り切ったらしい。療養中の日々の食事のことも、すぐに飛んで行けない親としては気が気でなかった。しかしそこは今を生きる若者。「あのね、若者にはネットという強い味方があるのだよ」と本人。平気なようだった。食べ物も飲み込めないような酷いのどの痛みは非常に辛かったとは言うが、それも乗り切れたようだ。ただ、初期の高熱でひどい頭痛をこらえているときに、近所の若者が、ベースを大音量で鳴らしているのに耐えかねて、警察に通報するというおまけまでついたそうだ。何にしても、予期せぬ苦難に一人で対処できるようになったことに感謝だ。高校時代の今にも消えてしまいそうだった、弱弱しい彼女はもういない。

 コロナのせいで、予定より2日遅れで帰省した彼女。文字通り食べて寝て、寝ては食べてを繰り返し、結局何もできない休暇になってしまった。しかし、これが里帰りというものなのかもしれない。”何もせず、ただただ親の作った食事を食べまくる”これで、また一年のエネルギーが蓄えられるのなら、良しとしよう。コロナを乗り切る体力がついた幸せ。うるさい近隣の住人を警察に通報するつわものに育った幸せ。

鬱老人にカミングアウト

 母が鬱で入院している最中(病状が極めて悪かった時期)に、母のすぐ上の兄が亡くなった。4人兄妹の一人が他界するのは、母にとってとても重大なことなので、隠したくはなかったが、ドクターストップがかかり内緒にしてきた。

 しかし、老人ホームに入所後施設の生活にも馴染み、ここのところ母の体調がすこぶる良い。当初はテレビをつけることも、施設の広間で皆で歌を歌うことすらできなかった母だが、今はテレビでニュースは必ずチェックしているようだし、広間での歌の時間も楽しめるようになってきている。同時に新年ということで、親戚に自分の携帯電話を使って近況報告を始めたようだ。

 亡くなった伯父にも近く電話をするはずだ。ここは腹を据えて告白をしなくてはならない。私の弟や、ドクターに相談したいとも思ったが、ここは一刻を争うと判断。告白することにした。慎重に、伝えるのが遅くなってしまった理由を説明し、伯父の亡くなり方も、親戚の方々に良くしていただいて安らかに逝かれたことを伝えた。すると母の反応は思いのほか淡白だった。「それは、天寿を全うしたということね。誰だってそれは避けられないからね。闘病中に会いに行って看病もできたから、良しとしましょう」とのこと。合理的で、さばさばとした母が戻ってきた感じ。ほっとした。

 

 

認知症発症から3年経ったお正月

 認知症を宣告されて初めてのお正月は、昔通りの大ご馳走を何とか周りの声掛けを頼りに数種類作った義母。次の年には、酢物とお吸物になり、今回は酢物だけになった。今回の酢物作りも、しかし大変だった。私が代わりに作ってしまえば手っ取り早かったに違いない。しかし、今年初めて家族の食事会に参加する新しい家族(みゆきの弟の嫁)には、何としても義母の美味しいお料理を体験して欲しかったので、半ば強引に沢山介助するという心づもりで作ってもらった。家族の新年会は2日の夜。なので本来ならば1日に材料を買って料理できるならばそれが理想的だった。しかし、1日に開いているスーパーはない。なので、12/31に買物したのがまずかった。

 買物をした当日から、普段は買わないタコを買ったことで母は既にパニック。「タコはあなたのでしょ?」と言う。これは、延々続くと思ったので、一旦私の冷蔵庫に預かることに。しかし、預かってからも何度も我家のドアをたたく義母。「私、お正月の料理を何かしなくちゃなんなかったよね?」と気になって仕方がない。そこで作戦変更して、31日のうちに酢物を作ってもらうことに。でもこれもうまくいかない。「タコで何を作ったらいいの?」となる。ここは腹を据えて、タコを切り、キュウリを刻むところまで見届けることに。タコを小さくカットし、キュウリを薄切りにして塩をした段階で、母からは「もうあなたも忙しいだろうから行きなさい」と追い出された。当然その後酢物は完成したと思いきや、夜、年越しそばを届けた時には、キュウリは塩もみしただけ。タコも切っただけの状態。これはやはり最後まで見届けなければ、と「今日のうちに酢物は仕上げておきましょう。そうすれば当日は慌てなくて済むしね。」と提案すれど、固辞。「当日に作らなければ美味しくない」とのこと。結局、仕上げは2日に私が自分のノルマでいっぱいいっぱいの中、手取り足取り、なんとか仕上げることができた。何故だか、昨年はお吸物も自分が作ったはずだと思い出した義母。これも自分で作ると言って聞かない。そこで任せることにしたら、パーティが始まる直前に「どうやって作ったらいいかわからん」と言い出す始末。「今年はお吸物なしでいいことにしいましょう」と言ったら、嬉しい出来事が。

 テーブルセッティングをやっていたみゆきの弟が「僕が作ります」と手を挙げた。義母の冷蔵庫から鰹節と昆布とをさっさと取り出して支度を始めるや、「あれ?これ賞味期限切れてるね!」だそうだ。今度こそ、お吸物を諦めようとしたら、その彼が「白だしありますか?」と言い出した。幸い私の冷蔵庫には残り少なくなっていた白出汁が少し。「それで大丈夫です」とあっという間に彼がお吸物を完成。驚いた。

 小学生の頃から、私が仕事から帰るとお風呂のお湯を張り、ご飯を炊いて待っていてくれる子だったが、お吸物まで作れるとは。大学時代に自炊していたのは知っていたが、まさかお吸物が作れるとはおもいもよらなかった。

 お料理上手な義母ができる料理が、年々少なくなってくることは寂しくてたまらない。だが、一方でそれをカバーできる人材が増えるのは無性に嬉しい。たかが、お吸物を我が息子が作ったことを喜ぶ私を不思議がるゲストたち。「お湯に白出汁入れただけでしょ?」と一笑する。でも、それだけじゃないんだよ。いちいちあれしてこれしてと指図なしに、しかも自分からやってくれることが特別なのだよ。

 世のなか捨てたものじゃない、と思える幸せ。