高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族のあゆみ

高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族の記録

灯台下暗し

 地域包括センターと、病院の連携室そしてネットの介護情報を駆使して、やっと一つ母が入居できそうな施設を見つけた。できればお友達ができるように、大きな施設が本人の希望ではあったが、ここは全部で10人しか入れないごく小規模な施設。そして介護度の低い(あまりアレコレお手伝いしてはもらえない)住宅型有料老人ホーム。入居者には居室があてがわれ、3度の食事と洗濯をしていただけて、24時間365日の見守りがある。お風呂、排泄は自立。

 先日、入院先から外出許可をもらって母を伴い見学させていただいた。見学予約のお電話をした時の応対は、こちらが名乗っているにもかかわらず、あちらは名乗らず、ごくごく事務的。少しばかり心配にはなった。媚びる必要はないが、母を預ける施設だ。丁寧な応対が欲しい。実際に見学に行っても、電話対応をして下さった方だと思われる男性はどうやら施設長のようだが、この時も名乗らず。冷たい感じではく、朴訥なだけかもしれないとは思うけれどこれでいいのかといささか不安ではあった。

 しかし、8畳位と思われる居室は、南向きで日当たりが良い。部屋にトイレがあり洗面台もある。そして、小さいが敷地内に畑があるのだ。大根やブロッコリーサトイモにショウガそして、ミカンの木も一本あって、たわわに実をつけている。そこで入居者と思われる男性が麦わら帽子姿で農作業をしていた。母に気づいて陽気に手を振ってくれたその男性の笑顔が良かった。施設長らしき男性によると、その入居者さんは92歳だそうだ。それを聞いて母が反応した。施設に足を踏み入れた直後には「退院する自信がない」と弱気だった母だが、急に笑顔でべらべらとしゃべりだした。「もし入居したら、私に地面を少しばかり分けていただける?そしたら花を植えたいわ!」

 母はどうやらすっかりそこを気に入ったようだ。コロナ禍が始まって以来、食堂で食事をすることは無くなったそうで、食事は銘々居室でするようになってその習慣はそのままだそうだが、週に一度はピアノのある食堂に集まってピアノの伴奏で歌を歌うらしい。ピアノ伴奏に飽き足らぬ男性方は、カラオケも楽しむのだとか。それも母をくすぐったようだ。

 入院が長くなって、また気分の落ち込みがちな母にとっては、このチャンスを逃したらもう二度と病院を出る機会は巡ってこないような気がしていたので、このチャンスは天の恵み。もしかしたら、母には合わないかもしれないが、先ずは試してみよう。ダメだったらまた探せば良い。なによりその施設、我家から歩いても20分、車なら5分で行ける距離。川が近いので大雨や、台風、地震の際には冠水や津波が心配だが、我家からはごく近いので何かあったら我家に退避できるというのも大きなメリット。入れる施設がないと大騒ぎしていたが、こんなに近くに見つけられたという驚きと喜び。我家から近いのは、母にとっても大きな安心材料のひとつのはずだ。

 

助けて!の第一声

 鬱老人の母の入居先探しがうまくいかないので、一人で悩まず声を上げることにした。まずは試しに、母の従妹の娘さんに電話してみた。母の従妹、幼いころから近所に暮らし、青春時代も一緒に過ごした大親友。結婚して遠方に暮らすようになってからも、長年家族づきあいをしてきた、母にとっては一番長い友人。ごく最近ご主人を失くされて、失意のうちに体を壊し施設に入居したと聞いていた。もちろん、その方の娘さんと私も面識がある。

 電話をすると、施設に母親を見舞って、帰ってきたところだと言う。ちょうど私の母の体調を気遣う話をたった今母親としてきたところだと言うから驚いた。やはり、人に相談するのは大切なことだ。つい最近施設探しをした彼女からのアドバイスは、目から鱗の話ばかり。「施設を探すときに、ケアワーカーさんや社協地域包括支援センター、それから見学させてもらう施設でも、私自身の現状-夫の両親の介護をしていること、そして夫が母との短期間同居で鬱を発症しかけたこと-を話しておくことが大事。それによって、待ちリストの順番が繰り上がったりすることがある」とのこと。このアドバイスには、驚いた。そして、ウエイトリストが長くても、悲観しなくて良いことも教えてくれた。季節の変わり目には、現入居者もしくは入居希望者の数に大きな変動があるので、何十人待ち、とかだったのが一気に状況が変わることもあるらしい。愉快な話ではないが、なるほどそれが現実なのだろう。

 それから、彼女からもう一つ、素敵な提案が。母の従妹が入居している施設は、我家からは4~5時間離れた遠方ではあるけれど、一時的にそこに母を入れて、それから我家の近くにその後の住まいを探すという手もあるのでは。と言うのだ。確かに、そこには母の欲している最高の話し相手がいる。

 確かに、良かれと思って母を入院させた最初の設備の整った心地よさそうな病院は、母には合わず泣き通しだったという痛い失敗があった。だからこそ、ここは慎重に考えなければならないだろうが、工夫を凝らして知恵を絞れば、あの手この手が見つかりそうだ。

 さっそく、私が夫の両親を介護している現状をあちこちで説明しながら、施設探しを再開してみることにしよう。最大限に想像力を働かせながら。

退院の壁

 母が鬱を発症し入院治療を始めて早くも半年が経とうとしている。入院当時からすると、格段に症状は安定している。一時期異様にハイテンションで、こちらが恐怖を覚えるくらいだったが、それも落ち着いてきた。医師が薬の適量を見つけて下さったのか、あるいは体が薬に慣れて来たのか。

 入院が長くなったせいで、将来が見通せずまた不安になり始めている様子の母。医師に相談すると、そろそろ退院しても大丈夫だろうとのこと。しかし、田舎の一人暮らしはもう無理だ。何より、入院生活で筋肉が弱り、あれほどかくしゃくとしていた母が、今では杖を使ってやっと歩いている。いつ転んでもおかしくない。半年以上自炊もしていないので、そもそも料理ができるかどうかも怪しい。退院は、医師とも相談して、入居施設を探してからということに。

 ところが、入居施設を探すのが思いのほか厄介。私たちの住んでいる地域には、なかなか要支援1で入れる施設がないのだ。住居型のケアマンションなども当たってはいるが、どこも満室。ウエイティングリストに何人もの人が名を連ねている状態。自県で精神科の入院施設を探すのに困難を極めた時と、また同じ状況。認知機能のあまり落ちていない母には、友人や話し相手が必要なので、規模の大きい施設の方が理想的だと思うのだが、そんなところが少ない。仕方なく小規模なグループホームも当たってみるが、そんなところは、介護度の高い寝たきりに近い方々で満杯という感じ。

 施設を探すことで、私自身のストレスを高めないよう、施設で必要になる衣類などの準備をしながら気長に…と思ってはいるが、退院を待ち焦がれる母の焦燥感を見てしまうとそうもいかない。母が発病した頃の、私の自律神経の乱れ”頭が痺れる感じ”がまた戻ってきた。

 こういう時は、一人で焦らず、声を上げよう。助けて!!!!!と。

面会制限が終わった

 母の病棟にコロナの患者さんが出て閉鎖になっていた病棟が、ほぼ一ヵ月ぶりに解放された。入院費を払いに病院へ行ったついでに、お誕生日カードを病院スタッフの方に託し、母の様子を伺うと、「お元気ですが、先日こけて足が痛いと言っておられます」とのことだったので心配していた。しかし、骨折はなく、車椅子にも乗っておらず割と普通に歩いていたので一安心。

 母の第一声は「お誕生日カードをありがとう。楽しく読ませていただきました。」カードの内容も覚えている様子で、認知能力も衰えていなさそうだ。そして、何度も「あなたに会えるなんて夢みたい」と繰り返す。「あら、夢かどうかツネってみてはみてはいかがですか?」と言うと、あろうことか母はすっくと手を伸ばして私の腕をツネって一言。「やっぱり夢みたいね。」お茶目な母が戻ってきた!!!!!

親を看ることは、ただ介護するだけではない

 母が入院して、押し寄せる雑多なアレコレに溺れそうだ。母の調子は、快方に向かっている。それはとても嬉しくありがたい。しかし、母が留守の間、母の家を管理する大変さに音をあげそうな自分がいる。母が入院直前まで一人で住んでいた家は、今は亡き父が、定年間際に定年後の楽しみのために買った畑付きの山林。決して広大な土地と言えるものではない。しかし、家で食べるほぼすべての野菜を自給自足できるようにと買った畑は、決して狭くはないし、孫たちを楽しませるために栗や桃、柿、枇杷などの果樹を植えた山林も、私一人で管理できるような広さではない。母の家屋の周りの小さな庭でさえ、夏の暑さで容赦なく生えてくる雑草に、私は太刀打ちできない。

 週末には、できる限り母の家に行って、家に風を通し、家の周りの雑草と立ち向かうが、私一人の力では、とうてい太刀打ちできない。今年の夏は、やむに已まれず、庭園管理の業者さんを頼んで、大きくなった樹木を短く伐採してもらい、草刈りもお願いしたが、この夏の暑さで、雑草は見る見るうちにまた伸び放題。

 よくぞ、父が亡くなってからのこの土地を、高齢の母が一人で管理してきたものだ。

小さな漁師町に育った父が、この広い土地に憧れて、家を建て自給自足の生活を体験したかった気持ちはよくわかる。私自身もその土地で父が育てた野菜や果物の恩恵にあずかった。孫たちも、そのおかげで心豊かに育ったとは思う。

 しかし、その地にたった一人残された高齢の母や、その後管理を引き継ぐ子や孫のことを、父は考えていたのだろうか。豊かな情操教育をしてもらっておきながら、父を責めるのは、間違っていることは分かっている。ただ、無意識に父を恨めしく思ってしまう自分が悲しい。私たち自身も高齢になりつつある今、この土地をいつまでも管理し続けられるとは思えない。しかし、この田舎の古い家の建った、あまりにも中途半端な広さの土地に、買い手がつくとも考えられない。父の思いの詰まったこの土地を、ただの朽ち果てた空き家として残したくはない。できれば、父のように自給自足にあこがれを持つ心豊かな若者に引き継いでもらえたら嬉しいが、さてどうやってそんな人を探したらよいものか。

 

母の病棟でコロナ患者

 母の入院している病棟で、コロナ患者さんが出たということで当分の間面会禁止になるという連絡がきた。確かに夏休みで人が大量に動いたせいで、地域でもコロナ患者さんが急増しているというニュースは聞いていたので、驚きはしなかったが、いざこうして実際面会が禁止されると急に不安になる。鬱の症状がずいぶん落ち着いて、みゆきとともに会いに行った際はお薬によるハイテンション状態も、ほぼなくなっていたので、後は骨折を治し、元通りの状態に戻すリハビリをすれば、念願の退院もそう遠くないと思っていた矢先のこと。

 入院生活で弱くなった足腰。そして骨折、コロナによる隔離措置。コロナの感染も怖いし、病棟が閉鎖されることにより起こる、患者や看護師さんたちのストレスも気になる。外の世界との隔離が引き起こす弊害は計り知れない。

 今日は母の87歳の誕生日。実はそれに合わせて、定期的に行っている婦人科受診のために、外出する予定だった。できれば入院生活では不足しがちな果物をたっぷり食べさせてやりたいと考えていた。が、お誕生祝も、外出もできない。電話も緊急でなければ不可。限りなく悩ましい。

 緊急でなければ電話も不可とのことだけど、それを知らないふりして、母の安否確認をしてみようかな。その電話の対応で病院の力量も図れるというもの。

27歳になったみゆき

 みゆきが夏休みで帰郷した。師匠が家族旅行をするタイミングで取れた4日連続の休暇を利用しての帰省。カメラマンの仕事を始めて、こうしたまとまった休暇はなかなかない。せいぜい週1。ラッキーな週は2回お休みがもらえたりするが、ひどいときには10連勤など普通。広告撮影などが入ると下手をすると午前2時に仕事をスタートして終わるのはその日の21時なんて時もあるらしい。19時間勤務⁈まさに真っ黒なお仕事。というよりそんな業界なのか。この師匠について3年、いや4年目?師匠には2年くらい前からそろそろ独立、と言われつつズルズルとアシスタントのままの多忙な日々。自立すれば、多少は自分の都合で仕事環境を変えられるようになるだろうと、期待しながら待っているが、一向に環境が変わる兆候がない。そもそも睡眠障害を持っていたみゆきが、よくぞそんなひどい勤務形態の仕事を続けてこられたものだと、あらためて思う。

 どうして、こんな過酷な仕事を続けてこられたのかと自嘲気味に自問自答していた彼女。先ずは、この仕事が純粋に好きなのだろう。単に好きでは、しかし過酷な環境を乗り越えることはできないはず。知らぬ間に体力もついたのだと思う。自転車通勤を続け、仕事で重い機材を持って歩き、筋肉も鍛えられたはずだ。体の水分は筋肉に蓄えられるというから、筋肉がつくということは脱水症状も起こしにくくなっているのだろう。

 帰省するといつもの通り眠り姫になってしまうみゆきだが、さすがに一日中寝てはいないのが救いだ。本当ならば日頃の睡眠不足を補うために一日中でも寝ていたいのかもしれないが、少し大人になった彼女は、午後からは親を楽しませてあげねばと思うのか、家族とドライブをしたり、隣のジジババ孝行をしてみたり、入院中の私の母を見舞ったり。感心したのは、どこかに出かける時に必ず水筒に水を入れて持参すること。高校時代の起立性調節障害の苦しみで学んだ、水分摂取を今でも忘れていないようだ。自分自身のトリセツをしっかり確立して実践している。

 3泊4日は、あっという間だ。しっかり寝て、東京の貧乏暮らしではなかなか買えない果物をたらふく食べて、少しの親孝行とジジババ孝行をして、風のように帰京してしまった彼女。これからは、自分自身で取ってきた仕事も、アシスタント業務に加えて徐々に増やしていくようなので、ますます忙しくなるだろう。体を壊さぬよう新しい出会いや、忙しさをエンジョイしてくれたら嬉しいな。