高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族のあゆみ

高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族の記録

2024年、みゆきのお正月

 娘のみゆきは、上京して9年。就職して5年か?年末年始の休みが、今年は少し長く取れる予定だった。例年より2日早く帰省し、2日遅くに帰京する予定。就職して以来こんなに長く休みが取れるのは初めてで、帰省したら何をしようかと楽しみに、年末の慌ただしさを楽しんでいた彼女。ところが、だ。帰省予定の5日前に熱発。検査をするとコロナだったと電話してきた彼女。年末12連勤してクタクタだと連絡してきた矢先のこと。撮影を頑張ったので、直後の貴重な休日に自分へのご褒美に推しメンのコンサートへ行くと言っていたので、何だか悪い予感はしていた。”押し活”は確かに元気の出る活動だろうとは思う。でも、疲れ果てている状態で人混みに出かけて行くというので、何か悪いものをもらわなければ良いがと、心配していた。しかし、起立性調節障害を乗り切る過程で、転ばぬ先の杖は決してしないと心に決めていた私。「感染しないように充分気を付けるのだよ」の言葉を飲み込んだ。そしたら、案の定その数日後に熱発。コロナと診断された。コロナで多くの重症患者や死者が出ていた当時と、今のコロナの扱いは全く違うようで、病院でもあまり特別扱いされないようだ。それはある意味気楽ではあるが、何せ彼女は一度もワクチンを打っていない。ワクチンで亡くなった友人のいる彼女は、頑としてワクチンを固辞してきた。起立性調節障害を経験して以来、ひどい注射恐怖症もある彼女。それも、頑として予防接種しない理由の一つであったと思う。東京の都心で、しかもあらゆる人と至近距離で関わらなければ仕事できないというカメラマンをしながら、これまで一度もインフルエンザにもコロナにもかからなかったことの方が不思議ではある。

 ワクチン接種を一度もしていなかったので、重症になるのではないかと大変気掛かりだったが、幸い高熱も1日、2日出ただけ。若く、持病もないというくくりに入る彼女、コロナの特効薬も特に処方されず、ただの解熱剤と、のどの炎症を抑える薬しか出なかったらしい。高校時代の彼女を見てきた私には、彼女を”持病がない若者”のくくりに入れても本当に良いのか、非常に疑問ではあったが、それでも、何とか一人で療養期間を乗り切ったらしい。療養中の日々の食事のことも、すぐに飛んで行けない親としては気が気でなかった。しかしそこは今を生きる若者。「あのね、若者にはネットという強い味方があるのだよ」と本人。平気なようだった。食べ物も飲み込めないような酷いのどの痛みは非常に辛かったとは言うが、それも乗り切れたようだ。ただ、初期の高熱でひどい頭痛をこらえているときに、近所の若者が、ベースを大音量で鳴らしているのに耐えかねて、警察に通報するというおまけまでついたそうだ。何にしても、予期せぬ苦難に一人で対処できるようになったことに感謝だ。高校時代の今にも消えてしまいそうだった、弱弱しい彼女はもういない。

 コロナのせいで、予定より2日遅れで帰省した彼女。文字通り食べて寝て、寝ては食べてを繰り返し、結局何もできない休暇になってしまった。しかし、これが里帰りというものなのかもしれない。”何もせず、ただただ親の作った食事を食べまくる”これで、また一年のエネルギーが蓄えられるのなら、良しとしよう。コロナを乗り切る体力がついた幸せ。うるさい近隣の住人を警察に通報するつわものに育った幸せ。

鬱老人にカミングアウト

 母が鬱で入院している最中(病状が極めて悪かった時期)に、母のすぐ上の兄が亡くなった。4人兄妹の一人が他界するのは、母にとってとても重大なことなので、隠したくはなかったが、ドクターストップがかかり内緒にしてきた。

 しかし、老人ホームに入所後施設の生活にも馴染み、ここのところ母の体調がすこぶる良い。当初はテレビをつけることも、施設の広間で皆で歌を歌うことすらできなかった母だが、今はテレビでニュースは必ずチェックしているようだし、広間での歌の時間も楽しめるようになってきている。同時に新年ということで、親戚に自分の携帯電話を使って近況報告を始めたようだ。

 亡くなった伯父にも近く電話をするはずだ。ここは腹を据えて告白をしなくてはならない。私の弟や、ドクターに相談したいとも思ったが、ここは一刻を争うと判断。告白することにした。慎重に、伝えるのが遅くなってしまった理由を説明し、伯父の亡くなり方も、親戚の方々に良くしていただいて安らかに逝かれたことを伝えた。すると母の反応は思いのほか淡白だった。「それは、天寿を全うしたということね。誰だってそれは避けられないからね。闘病中に会いに行って看病もできたから、良しとしましょう」とのこと。合理的で、さばさばとした母が戻ってきた感じ。ほっとした。

 

 

認知症発症から3年経ったお正月

 認知症を宣告されて初めてのお正月は、昔通りの大ご馳走を何とか周りの声掛けを頼りに数種類作った義母。次の年には、酢物とお吸物になり、今回は酢物だけになった。今回の酢物作りも、しかし大変だった。私が代わりに作ってしまえば手っ取り早かったに違いない。しかし、今年初めて家族の食事会に参加する新しい家族(みゆきの弟の嫁)には、何としても義母の美味しいお料理を体験して欲しかったので、半ば強引に沢山介助するという心づもりで作ってもらった。家族の新年会は2日の夜。なので本来ならば1日に材料を買って料理できるならばそれが理想的だった。しかし、1日に開いているスーパーはない。なので、12/31に買物したのがまずかった。

 買物をした当日から、普段は買わないタコを買ったことで母は既にパニック。「タコはあなたのでしょ?」と言う。これは、延々続くと思ったので、一旦私の冷蔵庫に預かることに。しかし、預かってからも何度も我家のドアをたたく義母。「私、お正月の料理を何かしなくちゃなんなかったよね?」と気になって仕方がない。そこで作戦変更して、31日のうちに酢物を作ってもらうことに。でもこれもうまくいかない。「タコで何を作ったらいいの?」となる。ここは腹を据えて、タコを切り、キュウリを刻むところまで見届けることに。タコを小さくカットし、キュウリを薄切りにして塩をした段階で、母からは「もうあなたも忙しいだろうから行きなさい」と追い出された。当然その後酢物は完成したと思いきや、夜、年越しそばを届けた時には、キュウリは塩もみしただけ。タコも切っただけの状態。これはやはり最後まで見届けなければ、と「今日のうちに酢物は仕上げておきましょう。そうすれば当日は慌てなくて済むしね。」と提案すれど、固辞。「当日に作らなければ美味しくない」とのこと。結局、仕上げは2日に私が自分のノルマでいっぱいいっぱいの中、手取り足取り、なんとか仕上げることができた。何故だか、昨年はお吸物も自分が作ったはずだと思い出した義母。これも自分で作ると言って聞かない。そこで任せることにしたら、パーティが始まる直前に「どうやって作ったらいいかわからん」と言い出す始末。「今年はお吸物なしでいいことにしいましょう」と言ったら、嬉しい出来事が。

 テーブルセッティングをやっていたみゆきの弟が「僕が作ります」と手を挙げた。義母の冷蔵庫から鰹節と昆布とをさっさと取り出して支度を始めるや、「あれ?これ賞味期限切れてるね!」だそうだ。今度こそ、お吸物を諦めようとしたら、その彼が「白だしありますか?」と言い出した。幸い私の冷蔵庫には残り少なくなっていた白出汁が少し。「それで大丈夫です」とあっという間に彼がお吸物を完成。驚いた。

 小学生の頃から、私が仕事から帰るとお風呂のお湯を張り、ご飯を炊いて待っていてくれる子だったが、お吸物まで作れるとは。大学時代に自炊していたのは知っていたが、まさかお吸物が作れるとはおもいもよらなかった。

 お料理上手な義母ができる料理が、年々少なくなってくることは寂しくてたまらない。だが、一方でそれをカバーできる人材が増えるのは無性に嬉しい。たかが、お吸物を我が息子が作ったことを喜ぶ私を不思議がるゲストたち。「お湯に白出汁入れただけでしょ?」と一笑する。でも、それだけじゃないんだよ。いちいちあれしてこれしてと指図なしに、しかも自分からやってくれることが特別なのだよ。

 世のなか捨てたものじゃない、と思える幸せ。

 

退院から1ヵ月

 精神科病院を退院して一月。当初はしきりに病院へ戻りたがった母だが、少し顔向きが明るく、足取りもしっかりしてきたように感じる。鬱の特性もあるのかもしれないが老人というのは総じて変化に弱いのだと、納得する。

 退院1ヵ月ということで入院していた病院の外来を受診したら、「元気そうだね」と主治医。一見しただけで、母の回復が見えるらしい。相変わらず母が、しっかり受け答えができることに主治医が舌を巻く。「向精神薬って食欲増進の副作用がありそうですね。食事を食べ過ぎてしまうので、お薬の量を減らしていただけますか?」と母。「おっしゃる通り、気分を上げる薬には、食欲増進の効果もあります。入院中から体重は何キロ増えましたか?」との医師の問いに「1.7㎏」と母が即答する。「施設で昨日計ったらは32.2㎏だったから」カルテを見ながら医師は苦笑。「確かに入院中は30.5㎏、合ってます!入院中から頭はしかっりしておられたもんね」

 精神疾患の特性なのか、それとも母特有の症状なのか、この1.7㎏を言い当てる鋭いところが私は何ともいえず怖い。私の心の奥底-私自身でさえ気づいていないような潜在意識まで-を全て見透かされているような、母を見ているとそんな怖さが、ずっとあるのだ。

 病気の経過は良好のようで、母の訴えた食欲を増進させる抗うつ剤は半量になり、圧迫骨折をして以来処方されてきた痛み止めも、2/3に減薬。次回の診察は2か月後。お薬の助けが多少あるとしても、食事が美味しく食べられるのは嬉しい。入居している施設の食事は、お薬のせいだけでなく実際美味しいのだと思う。母に食べたものを尋ねると、メニューが豊富だし、併設の菜園の新鮮な食材を使っているとのことだった。それに何より小規模なので、丹精込めてお食事を作ってくださっているのだと思う。暇を持て余しがちな、施設生活で食事は何より大きな楽しみのはずだ。食事が美味しいことだけをとっても、施設に入ったのは正解だと、母も感じてくれていたら嬉しい。

なかなか気分が上がらない

 退院から10日。母の気分は相変わらず優れない。ドライブや美味しいものを食べに行ったりしようと誘っても、乗ってこない。「まだ調子が悪い。病院に帰りたい」と呟く。病院の方が安心感があるのかもしれない。でも、病院に戻ったら、もう戻ってこられないような気がしてならない。今朝は寒い日ではあったが、少し散歩をしてみようと誘ってみた。渋々ではあるが、施設の外に出てほんの10分ほど散歩してみた。近隣は細い道路ながら交通量は少なくないので、一人で散歩に出られては危ない気はするが、何より母の気分を変えたかった。お日様に少しでも当たるのも大事だと思えた。

 ゆっくりまったり散歩するつもりが、母は追いまくられているように歩くのだ。足腰が強いと言うわけではない。長い闘病でますます筋肉量が減っているのは手に取るようにわかる。なのに、まるで都会を歩くビジネスマンみたいに、趣のないせかせか歩きをするのは何故なのか。肺活量も落ちているようで、少し歩いただけで息も上がっている様子。ゆっくり、ちょっとずつ体力をつけていけると良い。

 今日は母の気分が上がるように、簡易な補聴器を手に入れて、それも持参してみた。自分で試着しても、音が増幅している実感がなかったが、母は声が大きく聞こえると言う。人の話が聞こえるようになることで、なかなか晴れない母の心の霧が少しでも取れますように。

退院から一週間

 母の退院から1週間。部屋にテレビを入れ、ラジオを追加し、編み物のセットと一人で遊べるゲームを持参して「どうやって長い一日を過ごしたらいいのさ」に答えて来た。できるだけ、行ける誰かが日に一度は訪問し、冷蔵庫のない不自由を補うべく、お菓子や果物、飲み物を届ける。 一番の気掛かりだった、田舎の母の家も買い手が付きそうになり、その吉報を何度も報告して、母の気分を上げる。

 しかし、まだ新しい生活に馴染めていない様子の母。要支援1でも使える介護サービスを使って、デイケアやリハビリに通う手配も始めた。日にち薬で、だんだんと慣れてくれると良いのだが、まだまだ「病院へ帰りたい」とブツブツ。でもよく話を聞いてみると、さすが小規模の施設。食事は美味しいらしい。畑のお野菜もふんだんに使って下さっているそうだから、さもありなん。「どうせ、病院へ戻っても、お薬は今頂いているものと同じなのだから、お食事だけでも美味しい方が良いのでは?」と言うと、「まあそうだけど」と気のない返事。

 リハビリを始めて体力が回復したら、少しずつ外出も増やして、景色を楽しむドライブをしたり、美味しい食事に連れ出せるようになれば、少しは今を楽しめるようになるだろうか。

退院の日がやってきた

 老人ホームが見つかって入居までの期間がとても短かったので、準備が大変だった。この時期息子の結婚準備やら、母の住んでいた家が売れそうになったりであらゆる雑事に追いまくられる日々。母の入居先は住宅型有料老人ホームというところ。規模もとても小さいので、設備面も充実していない。お部屋に揃っているのは、トイレと洗面台と介護用ベッドがあるだけ。収納は全くないし、食事もコロナ禍以来、それぞれの居室でしているということなので、食事用のテーブルとイスも必要だろう。小さな箪笥も要るし、共同の冷蔵庫もないので、水分補給のための水やおやつを入れるちょっとした冷蔵庫も要るだろうし、長い一日をしのぐためのテレビも要りそうだ。しかし先ずは入居の日から、すぐに必要な食卓と椅子、着替え、洗面用具のようなとりあえずの品だけを退院の朝までかかってバタバタと買い集める。

 半年近くもお世話になった病院だったが、退院は実に淡白で事務的で短時間で済んだ。高齢者の精神科病棟という病院の性質上か、私物もほぼなかったのでその点も身軽な退院。退院があまりにもスムーズだったせいかどうか定かではないが、あれだけ病院を出たい出たいと繰り返していたのに、新しい入居先に向かう車の中で、母がごね始めた。「退院するのが早すぎたみたいだよ。また具合悪くなってきた」

 退院できたから、楽しいことをいっぱいしようと母の気分を盛り上げようとしていた矢先のこと。こうなったら、どんなに気分を切り替えようとしてもうまくいかないことは経験でわかる。「そうだね、入院が長かったから外に出るのは不安だよね。でもホーム入居の予約もあるし、病院には、今まで入院を待っていた患者さんがすぐに入ってしまうから、先ずは1週間だけでもお試し入居をしてみようよ。」と諭して、入居へ。

  明るい色のベッドリネンで気分を上げてくれるといいと願いながら、入居手続き。書類を交わし契約をしている最中にも、母はずっとお客さんの体。「誰の入居ですか」と突っ込みを入れたくなるくらい。「喉がかわいて、気分が悪い。何か飲まなきゃ死んでしまう。」とわがままを言う母。部屋に落ち着いてからも不安げな母に、「これからは秋バラを見に行ったり、美味しいものを食べに行ったり自由にできるのよ。最初はどこに行きましょうか」と機嫌取りを試みるが、一向に乗ってこない。施設の食事が始まるころに、そっと退散したが、食事が終わったらすぐに母の携帯電話から電話がかかってきた。「長い夜をどう過ごしたらいいのさ」と恨みがましいことを言う母。どんなときにも優しく、自分のことはさておいて他人のことばかりを心に賭ける本来の母はもういない。

 でも、朗報が一つ。長い入院の間禁止されていた携帯電話を与えたら、普通に使えた!携帯電話の使い方を忘れていなかったのは嬉しい。ただ、携帯に入っている番号に夜中迷惑電話を掛けないか…それは少し気にかかる。入院中電話の携帯が許されていなかったのは、きっとそういう恐れがあったからだろうと、今頃思い当たった。