高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族のあゆみ

高校生で起立性調節障害を発症した娘と家族の記録

自分の家のお皿が分からない

 物忘れが進んできている様子の義母。最近は食器棚のお皿が見覚えのないもののように感じられて、それが気になるらしい。日中何度もお皿を抱えて我家に現れる。「これ、あなたの家のお皿だったわよね。長く借りっぱなしにしちゃったみたい」と我家に持って来てくれる。初めは「これは私のお皿ではないみたい。お母様の昔使われていたお皿なのかも」とその都度お返ししていた。しかし、最近はその頻度が高い。一日に何度も同じお皿を持ってくる。私は繰り返しに慣れている。慣れているので、何度でも答え方を変えながら、ゲームのようにお皿を返すことができる。その時々に、何か急ぎの用事をしていると、少し困ることはあるけれど、さほど苦にはならない。

 しかし、これを何度も繰り返していて、ふと義母のことが心配に。ある程度なら、短い距離を行き来するのは、座りっぱなしで家に居るよりは、運動になって良いかもしれない。しかし、あまりに回数が多いと義母が疲れ果ててしまうのではないかと。そこで最近は、3回だけ来てもらって、4回目には「ありがとう、頂いておきますね」と受け取ることにした。義母が持ってくるお皿の全部をこちらで受け取ってしまうと、我家の食器棚はすぐにパンクしてしまうので、パンクしないうちに、おかずを入れて返却することにした。以前はデイケアに行っている日の夕方のおかずを私が作って持参することにしていたが、しばらく前からそれを義母が嫌がるようになってストップしていた。しかし、義父母の食事は益々シンプルになってきていて、栄養が不足するのではないかと気を揉んでいた。その、解決策に繋がらないかと考えたのだ。「先日頂いたおかずの(実際はお皿だけもらったのだけど)お礼に、作りすぎたおかずのおすそ分けです」と渡すことにした。発想の転換。驚いたことに、こうするとすんなりと受け取ってもらえることが分かった。認知機能は衰えても、人間としてのプライドはずっと保とうとすることをすごいなと尊敬しつつ、尊厳を守ることで、栄養不足になってしまうことを危惧していた私。想像力が足りなかったことを大いに反省。介護には想像力が必要なのだ‼

 

義父母の激しい口論

 義父は義母が認知症だということを認識している。なので義母の物忘れを嘆きながらも、お薬を飲み忘れないようサポートしたり、義母が通帳などの大切なものをしまう時には気を付けて見ていてくれたり、辛抱強く見守ってくれていることが痛いほどよくわかる。しかし、義母がイライラしたり、怒鳴ったりすることが、病気のせいだということを、義父はいくら説明しても理解できないようだ。義母に怒鳴られたら、倍の大声で怒鳴り返したり、終いには物を投げたりもする。「認知症の方には、怒鳴らず、そうだね、そうだねと肯定するのが大事なのですよ。そうすればその優しさが返って来るのですよ」と説明するが、その声はどうしても届かない。義父が大声で怒鳴り返すと、義母の具合はみるみる悪くなり、感情的にも不安定になるし、物忘れの症状もものすごく悪化するのが、傍から見るととっても良く見えるのに、渦中の人には見えないらしい。

 義母の不調は、ここのところマックス。「連れ合いがとっとと死んでくれれば、どんなに幸せだろう」と相手かまわず公言してしまう。本人にもそんな言葉を浴びせている様子で、悲しくてやりきれない。どうにか、義父母が離れる時間ができるように、義母のデイケアへ行く回数を週2から週3に変更することにした。でもこれはこれで、リスキーだと私は思っている。離れる時間ができるのは好都合だが、外出をする回数を増やすと義母自信が体力的に疲れて、余計帰宅してからの義父との時間がしんどくなるのではないかと危惧する。本来ならば義母が家に居て体力回復をしている時間に、義父の方にどこか楽しいところに出かけてもらうのが最善だと思うのだが、そのためには義父の介護認定を受ける必要がある。それには実子たちの了解が要る。でも彼らが動かない。「とっとと死んでしまえ」と罵りあっている現場を見る機会がないからに違いない。私が実子たちにその事実を伝えても、何か響かないのは、私がことさら大げさに誇張しているとでも思っているのか。それとも関心がないのか。

 介護認定なしに義父に出かけてもらえるところというと、どこかの施設のお試し体験だろうか。ぜひ、外出先で介護のプロから大切にケアしていただく心地良さを義父に味わってほしい。義母の認知症のせいで、お食事が単調で、栄養の偏ったものになっている事も、外の栄養管理された食事で挽回して欲しいとも思っている。外での心地よい体験で、介護認定を受けて、外に出かけたら、風通しが良く、楽しい場所があるということに気づいてくれたら嬉しい。これを当たり障りなく提案できるのは、きっとケアマネさんなのだが、義母のケアマネさんと、阿吽の関係が取れていないことが残念だ。ちょっとケアマネさんとじっくり膝を突き合わせてみよう。

認知症が進んでいる

 まだ、普通の知的会話はできる。初めて会った人なら、義母の認知症に気づく人は少ないかもしれない。しかし、本当に少しずつではあるが、できないことが増えているようで辛い。以前は朝と夜のお薬をカレンダーに私たちが貼り付けて、食後に自ら確認しながら飲んでもらっていたが、今は義父が食事の度毎に義母の目に付くところに薬を置いて下さり、食後に飲み忘れないよう声掛けをしてくれているようだ。食事もレパートリーが減り、調子の悪い時には冷蔵庫の中身を見て、何が作れるのかわからなくなることもしばしば。「今日は野菜炒めでもしましょうか」と声をかけ、食材を全部目の前に並べてみても、どこから手を付けて良いのかわからなくなることもある様子。ちょっと私に用事があって出かけてしまうと、朝昼晩全部菓子パンで済ませてしまうこともしばしば。そして何より、始終イライラして義父を怒鳴り散らすことも前より増えた。

 義父は義母より4歳年上。変形性膝関節症で両方のひざを手術しているので、歩きは良くないが、以前のような痛みは少ないとのこと。ひどい難聴もあり、義母との会話には大きな困難を伴うが、生活する上で自立度は高く、お風呂もトイレも自立。多少の物忘れはあるが、生活に支障がでるほどではない。なので、介護申請をしても介護度が付くとは思えない。

 しかし、難聴でしかも典型的な昭和の男性なので、義父は家事を一切しない。とはいえ以前義母が働いている頃には炊事、洗濯、掃除を手伝っている姿を見ることもあった。しかし今は日がな一日テレビの前で横になって過ごすことがほとんど。多分それは、義父が年を取って、体がしんどいせいだろうと思うのだが、それは多分義母も理解しているはずだ。しかし、体は思うように動かなくても、認知機能の衰えていない義父が、当然のように何もしないことが義母には面白くないらしい。体が健康で思い通りに動く自分だけが、認知症のせいでテキパキといろいろなことをできないにもかかわらず、何もかもの家事を自分だけが背負わなければならないことに不公平感を募らせているのだ。気持ちは本当に良くわかる。

 自分が以前容易にできたことをテキパキとこなせず、自分自身イライラしているところに、一日寝て暮らせる夫に憤るのは理解できる。できることなら、イライラを募らせないように二人が離れて過ごす時間がたくさんあると良いと思うのだが、義母が週に2回デイケアに行く時間以外に離れて過ごす時間は少ない。義母を散歩に連れ出したり、買物に連れ出したり工夫をするが、その外出で気分転換ができたとしても、帰宅すると、テレビの前で横になっている夫を見て、また怒りが爆発してしまうようだ。

 義父を外に連れ出す良い手段はないものか。歩きが不自由なので、最近はめっきり散歩をしなくなってしまった義父。義父にとっても外出で気分転換するのは良いことだと思うのだけれど。夫や義妹がドライブにでも連れ出してくれたら良いと思うのだけど…。

 

友人の恵み

 去年の夏まで、私には本当に長い間、何かあるたびに支えてくれる友人が傍にいた。みゆきが3歳の時に始めた英会話教室で出会ったママ友。周りは若いママたちがほとんど。その中、外観は他のママたちと違わないその友人は何故か同じような匂いがした(笑)私と同年代の匂い。子供たちがレッスンしている間待っている英語教室のロビーで親しくなって、その後レッスンのない日にも度々会うようになり、今までずっと一番気を許せる友人になった。かれこれ25年の付き合いになる。人生のあれこれを25年も共有した友人。当然みゆきが起立性調節障害で苦しんでいた時期にも、この友人が私の支えになってくれたし、義父母の介護を始めてからも、煮詰まった私の気持ちをほぐしてくれたのは彼女だった。

 彼女も実のお母様を長年介護の末、2年前に一人で看取られた。その後1年ほど一人暮らしをされた後、お嬢様の家族が都会で家を建てられたタイミングで、お孫さん育てのサポートのため彼の地へ引っ越すことに。当初は、遠いとはいえ会えない距離ではない、と強がりを言ってみたが、あれからほぼ半年。寂しくてたまらない。今まで私がいろいろなこをどうにか乗り越えてこられたのは、ひとえに彼女の支えがあったからだと今になって改めて思い知っている。

 幸い今のところ、みゆきの闘病の時のような大きな悩みはない。けれど、介護をしていると全く悩みがないと言ったらうそになる。ほんの小さなわだかまりでも、信頼できる誰かに話してしまえば、嘘のように心が癒えるのだ。物理的支援がなくても、ただただ聞いてもらえるだけでそれで、また心をリセットできるのだ。それがない寂しさ。心に大きな穴が開いてしまったようだ。

 でも、今まで長い間支えてもらえたことに心から感謝。春になったら、ちょっと思い切って彼女に会いに行こう。それを糧に今日をしのごう。

 

 

3回目の認知症検査

 お正月のパーティをしてからほぼ1ヵ月。忙しさでパニックになってお料理が全く手につかなくなってしまった義母も、ようやく落ち着いて日常を取り戻しつつある。確かに忙しい行事でパニックになった後の回復は遅くなっているように感じるが、それでも1月もすると、ずいぶん余裕が感じられるように。このタイミングで年に一度の認知症検査に。常に見ている私が見ても見た目はほとんど変わらないように思うし、時々しか会わない義妹には変化が全く見えないようだ。でもお正月のお料理を見ていると、着実に認知機能は落ちているようにに見える。

 お世話になっている脳外科は家から車で30分ほどかかる。日頃定期的にコレステロールのお薬を頂いているファミリードクターへは車で10分もかからないで行けるので、30分かけて行く病院を義母はとても嫌がる。確かに遠いだけでなく、自分に物忘れの自覚があるからこそ、専門医で診られるのは自尊心を傷つけるに違いない。病院へ向かう道中、何度も何度も「脳外科へはいつまで行かなきゃならないの?」と尋ねる義母。「一生いかなきゃいけない」とは到底答えられない。「脳血管が詰まらないようにお薬を続けないといけないのです」とか、「お薬で物忘れがひどくならないようにおさえましょうね」とか、ゲームのように同じ答えをしないようひたすら違った答えをするのが私の目標。もしかするとこれが実の子供だとこうも気長に答えられないのかもしれないが、これは私ならできる。これは私の頭の体操だととらえて、とことん違った答えを探すと、これはこれで結構面白くもある。何度義母は同じ質問をしただろう、何パターンの答えができたか数えておけたらよかった(笑)

 今回の認知症テストは30点満点の18点。最初の年は22点。去年は24点だったから、かなり悪かったように感じる。が、担当医は急激に悪化したわけではないから心配いらないと言われた。ただ頭の機能を上げるメマンチンという薬が10mgから20mgに増えた。

 劇的ではないが、少しずつ下がってきた認知機能のせいで、確実に義父母の生活の質は下がってきている。コンスタントに以前のような食事ができているかも心配だ。夫や義妹には認知機能検査の結果や、お料理が難しくなっていることを伝えてはいるのだが、リアクションが帰ってこない。一緒に病院に行っていないことも、常に一緒にいて観察をしていないこともその要因だと思う。もっと大事な局面を実子たちに見てもらうことが大事だと思うのだが、うまくいかないのがもどかしい。もしかすると、まだ認知機能が極端に下がっていない今の時点で夫婦で施設に入ったら、栄養の面でも、お互いの時間を持てるという点でも幸せなのではないかと考えもするが、さて実子たちはどう考えているのか。

 

鬱病発症から10ヶ月

 母が鬱を発症して10ヶ月。発症当時からすると格段に顔向きが良い。投薬は続いているとはいえ、素人目には寛解と言ってよい感じすらする。現在、退院から約2ヶ月。退院当初は、テレビを観ることすらできなかったし、たかが10人程度の集会室で大好きな歌を歌うのですら嫌がった。それがここへ来てニュース番組は毎日見て、最新の出来事をフォローしている様だし、歌の会にも参加できるようになったと施設の方から教えていただいた。施設の入居者の方の中に、お知り合いもできて話をすることもあるようだし、「何もすることがなくて、一日をどう過ごしていいかわからない」ともぼやかなくなった。聞くと、せっせと編物をしたり、血液循環を良くするために手に入れた””あしぶみ健康ライフ”という器具でせっせと運動している様子。本もボチボチ読み始めた。

 -テレビが観られない

 -本が読めない

 -人と関りを持つのが億劫

 -何をして良いのかわからない

それが、一気に解消した気がする。それと

 -人に感謝できない

 -他人に配慮できない

そんな感じも随分なくなった。発症前には、何かを私に頼むとき、必ず「申し訳ないね。お願いね。」と言っていた母が、病気を発症してからは当然のことのように用事を言いつけ、それを果たした後「ありがとう」の一言もないことが非常に気になっていた。

 それもなくなった。施設の職員の方にも何かをしていただいたら「ありがとう」と感謝は伝えているようなので、本来の姿に戻りつつあることが本当に嬉しい。

 ただ、1年前には当然のようにしていた買物や、料理、掃除洗濯、庭の雑草管理などをまったくやらなくなっているので、そのことは少し気掛かりではある。今まで、それらの家事をやっていたからこそ保たれていた認知機能が、衰えてしまうのではないかと心配だ。だからといって今更一人暮らしはさせられないとは思うが、何か手立てを考えなければ認知機能の急激な衰えは避けられないに違いない。

 まずは、母が回復に向かっていることに感謝しよう。そして母がどうやったら日々をエンジョイしながら、認知機能を維持できるか、工夫を凝らしてみたい。

 

みゆきが覚えていること

 高校時代に起立性調節障害で苦しんだみゆき。あれからはやくも9年。今回の帰省はコロナにり患したせいで、自由に出歩けなかった。しかし「実家で何をしたの」と仕事仲間に聞かれて、「家で食べて寝たと」しか言えないのも寂しいとのことで、外出しても差しさわりがないと思われる帰京の日のお昼だけ、彼女の希望で外食をした。リクエストは彼女の闘病中、病院へ行った帰りによく寄ったエスニック料理の店。当時、何を食べても吐き気がするのでガリガリに痩せてしまっていた彼女が唯一美味しく食べられたのが、そこのトムヤムヌードル。それが食べたいと言う。

 期待を膨らませて注文したその料理、残念なことに、体調の悪い時に必ず助けになってくれる料理ではなかったらしい。コロナ明けの、まだ痛みの残っている喉には刺激が強すぎたようだ。でも笑いながら彼女曰く「高校時代のことは本当に何も覚えていないのだよ。覚えているのは、ここのトムヤムヌードルが私の救世主だったこと。それと高校時代に吹奏楽コンクールの地方大会に行って、顧問の先生がラーメンをご馳走してくださったこと。たったそれだけ」

 人間の体はすごい。しんどかったことは、きれいさっぱり忘れさせてくれるようだ。

どんな風にしんどかったのかもあまり覚えていないらしいし、当時の学友の顔や恩師の方々も全く記憶になく、ぼんやりと出席日数が足りず落第寸前だったことや、母親に苦労をかけただろうことはもちろん自覚があるけれど、具体的には何も覚えていないのだと言う。今でも時々、単位が足りず卒業できないという悪夢で飛び起きることがあると言う彼女。でも、詳細は本当に覚えていないのだそうだ。卒業式の朝に、私と大喧嘩したことすら覚えていないと言うから拍子抜けだ。

 当時のことを詳細に覚えているなら、苦しんでいる人にいろんなアドバイスをしてあげたいと言う彼女。でも現在彼女が助言できるのは、エスニック料理ならきっと食べられるよ。そして今は苦しくても、その苦しみはいつか終わるし、終わってしまったら忘れられるよ、ということだそうだ。